合理性と感覚

なんであれ経験が蓄積されることは知識も増えることであり、オレがオーディオに凝り始めてそれほど長い時間が経過したわけでもないのだが、それでも多少は知識も増えてきた。ゼロに比べれば僅かでもプラスはプラスである。しかし、その知識に基づく合理的判断が必ずしも感覚的に優れた結果を生むわけではない。オレなりに合理的に作ることができた參號機 2A3 シングルは確かにレンジも広くローノイズであったが、全くつまらない音しかしなかった。逆に適当にでっち上げて、電圧配分も思惑通りに行っていない初號機 (改)843 シングルが妙に元気が良くていい感じの音だったりもする。勢いに任せて作っちゃったものの方がいいわけだ。

知識の陥穽はそこにあり、著名なマニアやアンプビルダーの設計したアンプの音がまるでつまらないという経験をした方も多かろう。オレのそれほど多くない経験では、ネットで有名になりシンパを増やしている新形式の回路に基づいて作られたアンプは大概あまり面白くない。そうしたものは電気のことをよく知る人が電気的に真空管の性能をより良く発揮させようとした結果なのだが、電気的合理性はオーディオ機器の感覚的優位性を保証するものではない。逆に設計の合理性、静特性という点では失格の烙印を押されても仕方のないものが逆に魅力的である場合もある。

こういう言い方は自分でもどうかと思うが、文化的厚みを背景に持たない機械はろくな音がしないものである。遠坂凛的に言えば「心の贅肉」が感覚を決定するのであって、たとえば「電線で電気的特性は変わらない」という前提を合理的判断によって絶対化することは感覚的可能性を狭めることにつながる。電線で音が変わることもあるかもしれないという感覚的判断によって実験を行った結果として「やっぱり変わらない」と感じられたならば自分のその感覚に基づけばよいだけの話だし、変わると判断すれば修羅の道を進めばよい。オーディオなど科学ではなく経験則の集積でしかないのだから、自らの立脚する合理性など現象のごく限られた一面に過ぎないと自覚すればよいのだが。

まあ、おそらくは多くの場合他の人にとって感覚的にもよいと感じられたものが、オレにとってはまったくつまらないというだけのことなのだろうからとやかく言う筋合いではない。ただ、つまらない音がよい音だとされることが多いのは寂しいことだと思うだけだ。

もちろん言うまでもないことだが、優れたエンジニアが合理的に設計したものが感覚的にも優れているケースはいくらでもある。つまらないものしか出てこない合理性は水準の低い合理性だということである。