DAC のこと

筋肉いぇいいぇーい!(挨拶)

勘違いしている人も多いようだが、科学は真理を記述するものではない。科学は人間がある体系においてどのように世界を把握しているかを記述するものに過ぎない。その体系ももちろん人間が作ったものだから、体系が変われば世界の見え方も変わる。地球が太陽の周りを回っていることも、雷が電気であることも、それは事実として把握されているけれど、かつてそれは事実ではなかった。逆に言えば、今の時点で「そんなことがあるわけはない」とされていることが事実になることもあるだろうし、人間が知っていることは世界のほんとうに一部でしかない。現時点で「存在する」と信じられている天体が、実はとうの昔に爆発して消滅していたとしても、その爆発の光が観測されるまでその天体は人間にとって存在するものにほかならない。

話を一気に矮小化すれば、「オーディオは科学である」というのは全く妄言だし、測定結果に表れない事柄は存在しないと判断するのはあまりに愚かだ。人間の認識能力、もしくは認識の範囲はまるで分からない。人間が感覚によって把握しているデータはあくまでアナログ的なデータ、つまり分節が曖昧で連続的なものであるが、人間はそれをいわばA/D変換することによって非連続的に分節された認識として構築する。440Hz も 441Hz も人間はその音を西洋的音階で言えば「ラ」として認識する。では 442Hz はどうか? 442.1Hz はどうか?どこから「ラ」ではなくなるのか?曖昧なデータをどこまで突き詰めれば人間の認識の境界に突き当たるのか?その変換の精度やメカニズムがどのようなものであるかを知ることは今のところできていない。結果からそのように論理的に考えられるというだけだ。

何が言いたいかというと、オーディオとは録音されたデータを人間の聴覚が把握する過程を楽しむ趣味であって、その把握のメカニズムが分からない以上、本質的に経験主義的にしか対応できない、ということである。「これをこのようにしたらこうなった」という経験以外に依拠すべき根拠が存在しない。快/不快などという感覚に至っては、そのような感覚がどのように生まれているかを知ることは全くできない。結果としてある神経伝達物質が増えれば人間が快楽を感じているということは論証できるとしても、そもそもそれがなぜ「快」であるかは証明できない。オーディオという趣味の範囲では、自分が「快」と感じたならば、それがどのようにしたら得られたかを経験的に再現するしかないわけである。

Promitheus Audio の DAC は、オレにとって「快」である。Scott Nixon の TDkit をオレが箱に入れた DAC とは格が違う。どのように異なっているかを説明しようとしても、恐ろしく抽象的な言葉しか使えない。そのような純粋な経験を日常言語に置き換えた時点でそれはオレの実感からはかけ離れてしまう。人間の認識は本源的に言語的に構築されたものであって、内在する言語を括弧に入れてしまわない限り純粋経験に触れることができない。オレが一般的にこの日記モドキであまり音質について詳細に言及しようとしないのも、そのような言語の不実を仕事柄もあって実感しているからだ。もちろんかつて龍樹が言語的分節を「世俗諦」と定義しそれはそれで意味のある「真理」であるとしたように、不器用でも純粋経験からはほど遠くても言語を使わない限りそれを他者に伝達することはできない。だから「レンジ」とか「歪み感」とか「透明感」とかいったそれ自体ではなにも言っていないのと同じ言葉を使ってなんとかオレが使っている機械の特徴を記述しようとはするけれど、それは「客観的」ではありえない。オレが発することのできる意味のある言葉は、「オレはこれが好きだ」というだけのことであり、むしろそれで十分なのではないか。「なぜ」「音がいい」のかは分からないし、「どのように」「音がいい」かを記述することにも恐ろしく困難を伴うならば、結果としてそれを好きか嫌いか、快であるか不快であるかを記述するだけでも、何らかの価値が伝達されるのではないか。

要するに気に入ったってことですヨ?