経験則

オーディオアンプの自作などをやっていると、世間にはだいたい二つの流派があることに気がつく。一つは「理論派」であり、回路の論理的整合性を重視し、結果としての特性が良いものが「正しい」とする立場。今一つは「音質絶対派」で、音が良ければ理論や特性は二の次で良いとする立場である。

こういう分類は単純化が過ぎるけれど、俺の立場はあえて言えば後者に近い。しかし、この二者はお互いにバカにしあってるところがあるのが気に掛かる。前者は後者の立場をしばしば「音が音で音だ」というように揶揄し、理論的整合性を持たないのにそれをいいと思う奴は文化的水準が低い、理論がわかってる俺様は正しいのだから跪け、という態度をとる。後者は今度は高価な、時には非常に珍しい部品を称揚し、この妙なる音が分からぬ者は音楽を知らぬ無粋な輩である、と切り捨てる傾向がある。

しかしながら、「音質」などというものはあくまで主観に過ぎないのであって、そして音楽を聴くために必要なのは主観であって、現代の測定技術では主観を定量的に把握することはできない。理論的に「正しい」とされるとある形式のアンプが、音質的にはつまらないという評価を受けることも多い(もちろんその支持者たちはそれを認めない)。たとえば牛肉は腐りかけなくらいが美味いという。それは人間が経験則によって得た知識であるが、それが「うまい」という判断はこれも主観による。牛肉をしばらく放置しておくことで何らかの成分の変化が起こり、その成分を人間が「美味い」と感じるらしいことは測定によってわかるとしても、人間がなぜ、どのようにそれを「美味い」と判断するか、そのメカニズムは分からない。オーディオアンプは電気によって動くもので、その動作自体は定量的に把握することができるとしても、それがスピーカーという非効率的なトランスデューサーを経由して結果として出す音を人間がどのように判断しているかはこれまた分からない。たとえば、所謂古典的位相反転回路は、歪が多く上下の出力インピーダンスが大きく異なるから「正しくない」とされるが、聴感上は「正しさ」で勝るアルテック型よりもいいと評価されたりもする。であるならば、アヤシゲな理論であるとしても、結果が良いと判断されれば、そのアヤシゲな理論は「正しい」理論になりうるのではないか。

自分が学び経験してきたことと矛盾するから「正しくない」という態度をエンジニアがとることがあって、それが技術的ブレークスルーを阻む結果になりうることは歴史が証明している。「そんなことで音が変わるわけがない」という前提で判断すれば、それこそ何をどうしたって意味がない。オーディオという趣味自体の前提が崩壊する。エンジニアリングなんてのは経験則の集積に過ぎないのであって、理論は結果の再現性にのみ寄与するもののはずだ。もちろん物理学の法則に反するような「理論」は廃するべきだろうけれど、既存の理論にかなうものだけが正しく、そうでないものはすべてオカルトだから排斥すべきである、じゃあ楽しくない。実験してみてダメだったら「すんません」でいいじゃないか。どーせアマチュアなんだし。火事を出して近所に迷惑を掛けるようなことがなければ何でもありでいいと思うんだけどねえ。それを許さない心理はなんなんだろうか。純粋文系の俺には理系様(笑)の考える事は分からない。