対峙すること

しばしばオーディオ関係の言説で見かけるものとして、「疲れるために音楽を聴く奴はいない」「音楽を楽しむことが大事」てな傾向のものがある。特に球アンプ好きの人がそういうことを言う。言いたいことは分かるのだが、オレは少なくともメインでじっくり音楽を聴く時にリラックスしようとは思わないし、聴き終わった時に疲れてほーっと溜め息が出てしまうような気分になる時が音楽を聴くに当たっての至福の時だと思っている。

オレの好きな音楽が地味で辛気臭くて深刻なものが多いということもあるのだろうが、オレは球アンプに癒しなんて求めていないし、単にオレが感じるリアルというものが球アンプだと相対的に安価かつ容易に取りだせるように思えるから使っているに過ぎない。大橋さんとこのアンプは、大橋さんご自身がどう思っているかはわからないが、比較的シリアスな音でプレゼンテーションとして強いように感じられ、そこが好きなところでもある。で、オレは音楽を聴く時には音楽に対峙したいわけである (催眠光線に負けることもあるが)。

だって生を聴く時には、分野が何であれ一音も聞き逃さないように、真剣に身を乗り出して聴くわけだ。ライブで踊ってるような時はまあ別としても。音楽そのものも娯楽のみを目的として作られたようなものに興味はないし (だからウインナワルツだのイタリアオペラだのビッグバンドジャズは嫌いだ。産業ロックは言うまでもない)。うまく言いたいことが書けないのだが、オレにとっては「癒し」を求めるなんてのは「原音再生」を求めるのと同じように意味がなくてつまらないことだ。精神の弛緩をよしとしない19世紀的教養主義なのかもしれないが、懊悩や嘆きや信仰や、そういったものを音楽から汲み取りたい。音楽家の張りつめた精神を共有したい。だから音楽を聴く。癒しなんてまっぴら御免だ。そんなものが欲しいならα波を出す機械でもかぶってろってんだ。