女性ヴォーカルのこと

id:Waldstimme さんのところで話題になっていて、コメントを書こうと思ったのだが長くなりそうなのでこちらで。

以前から書いていることだが、オレは所謂「女性ヴォーカル」でくくられる音楽をほとんど聴かない。人の声が入ってる音楽自体、ロックミュージックを除けば宗教的な題材を扱っているものしか聴かないといっていい。ヴォーカルそのものを聴く趣味がそもそもない。歌はメッセージを伝えるもので、愚にも付かない惚れた腫れたを垂れ流すものではないからである。

オレにとって「女性ヴォーカル」は退屈な音楽の代名詞であって、精々酒場の BGM として聞き流す分には邪魔にならないという程度の認識でしかない。音楽としてシリアスに対峙するに堪えるものは、縦令それが女性の歌うものであっても「女性ヴォーカル」のカテゴリには含まれないと思うし。そういう風にくくられてしまうこと自体(そして、そういう風にくくってしまうオーディオマニアの対象との向かい合い方自体)音楽としての匿名性というか、いくらでも代替可能な消費財に過ぎないという事態を剥き出しにしている。

「歌はリリンの作りし文化の極み (笑)」なのであって、文化的な人間というのはコジェーヴのいうところのスノッブな態度を堅持するものであって、つまりバナキュラーではありえない。理性的存在である人間にとっては甘ったるい声で歌われる恋愛沙汰なんかより、張り巡らされた構造を読み取り、精神の淵源を辿ることの方がはるかに重要で意義のあることだ。インスタントな感情を喚起させる音楽はまさに「動物的」消費の対象でしかない。

付け加えるならば、にもかかわらずそうした音楽を好む人は自らの嗜好をある程度「高級」なものだと考えていて、よりインスタントに感情を喚起させるアイドル歌謡のようなものを唾棄すべきものと捉える傾向がある。が、オレの知る限り、そういうアイドル的なものを好む人は、何重にもねじくれたそれこそスノッブな態度でそれらに向き合っていて、それらが孕む消費の構造にまで思いを至らせた上で踊っていることが多い。シリアスな指向性を持ちながら高度消費社会における消費財の典型であるそれらをも楽しむ対象に包含しているといえばいいのだろうか。

で、オレが屡々ここでも取り上げるアニメやゲーム関連の音楽はどうかというと、主題歌やキャラソンはほとんど女性が歌っている。少なくともオレはそれらがシリアスな意味での音楽の範疇に入るとは考えていない。キャラクターグッズの一つである。「萌え」という情動自体があまりに複雑怪奇で説明不能なのだが、そういう商品における女性の声は包括的「萌え」の構成要素である。たとえばオレは栗林みな実の CD を持っているが、別にシンガーとしての栗林はどうでもよくて、涼宮遙が好きなだけである。栗林の声を聞くと遙への連想からなんらかの情動が刺激されるからそれを聞くだけであって、栗林の歌は広い意味では(直接的関係はなくとも)遙のキャラクターグッズの一部であり、栗林を主題歌に起用するアニメを制作する側も、シンガーとしての栗林というより、ギャルゲー的「萌え」要素として栗林を採用していることが伺える。

だから、そういう音楽の中にはいい曲だと思えるものが確かにあるにしても、それは決して楽曲単体ではなく、作品との連関においてよいものだということである。名曲として評価の高い『鳥の詩』にしても、Air という作品のもたらす「感動」とセットになっているからこそ名曲たりうるのである。

要するに、所謂「女性ヴォーカル」ってのは、ひどく安っぽい匿名的消費財に過ぎないもので、「萌え」を喚起するものでもない以上、オレにとっては何の価値もないということだ。端的に言えば「どういう音楽が好きなんですか」という問いに「女性ヴォーカルが好きです」と答える人とは友達になれないということで。ま、リアルワールドにおける恋愛やセックスには全く興味がないからなんだけどね。