オーディオと理屈とゲーム

mixi にぐだぐだ書いてたら長くなったのでこちらにコピペ及び加筆。

いい音なんてものがあくまで主観に依存する幻想なのは当然として、特性をよくする手段ってのは理屈である程度考えられる。真空管アンプでいえば、内部抵抗が低く直線性の優れた球を使えば、ワイドレンジで歪みの少ないアンプになる。OPTの効率がよければパワーが取れてかつ歪みも少なくなる。それは理屈でわかる範囲の話で、自作アンプの話になると結局結論がそこに行き着いて、自分がいかに高級なトランスと優れた球を使って(要するに金をかけて)特性のいいアンプを作ったかという自慢話になってしまう。

いや、理屈はわかるんだよ。でもそうやってある程度結論が分かってるんなら、結果を求めるにはナントカ先生謹製の高級部材アンプを拝み倒して譲ってもらえばいいことになる。自分で作る意味なんてない。自分でやるなら、わけの分からないものを何とか使えるようにするのが楽しいと思うんだけどねえ。

なんか最近思うんだけど、オレの趣味ってもはやオーディオじゃない。じゃあ何かと聞かれると一口では言いにくいんだが、ゲームとパズルと工作と音楽を組み合わせたようなもんじゃないかな。データシートを眺めて使えそうな動作点を割り出して回路を考えるのはパズルみたいなものだし、限られた予算でいかに面白いものを見つけて入手するかという点ではゲーム性があるし、弁当箱をゴリゴリするところから始める工作は「この世に存在しないものを一から作り出す」という、ある種オブジェを作るような楽しさがある。その結果好きな音楽を聴くことができるわけだ。

予算にしろシャーシを自力で工作することにしろ、そもそも真空管にこだわることにしても、それは出る結果に対する制限であって、無限に良い結果を求めるならそのような制限は全て外せばいい。しかしスポーツのルールが結果に対する制限であるように、一定のルールがあるからゲームは成り立つ。なんでもアリでは楽しくない。

失敗も含めて頭をひねることが楽しいと思えなくて何の趣味だろう。何に楽しみを見出すかは人それぞれだけど、安全な自意識の檻の中から他人を見下すことが楽しいというのは人間として終わってるということだけは言える。

たとえば、狭い場所で三角ベースに興じている子供に「お前らのやってることはほんとの野球じゃない。そんなのが楽しいなんてレベル低いなプププ」ということを言う奴はいない。しかしそれを平気で言うのがオーディオマニアという人種である。あと山岡士郎。1万円のトランスなんてゴミ、多極管なんてゴミ、中国やロシアの球なんてゴミだと真顔で口にする人もいる。しかしさらに制限を緩くすれば、今度は「再生産の WE300B なんてゴミ、タムラのトランスなんてゴミ」ということになる。自意識をモノに依存するとひたすら他者を見下すことでしか精神の安寧を得られなくなる。

別にオレに被害が及ばなければそれでいいんだけど、要するに何が言いたいかといえば、オレは趣味を一種のゲームとして捉えていて、自分にルールを課しているということ。いわば三角ベースのローカルルールであって、他の場所で行われているゲームに自分のルールを強要する気はないけど、ゲームとルールという感覚は共有してる人がいると嬉しいな、という感じである。