棘、もしくは疲労

よく磨き上げられたように見える白木の床を掌で撫でてみて、棘が刺さることがある。わたしたちはその棘を取り去り、更に床を滑らかなものとして二度と棘が刺さらないようにするだろう。しかるにわたしたちは音楽を聴くという能動的行為において、床を滑らかなものとするように音楽を聴こうとはしていないだろうか。

はじめから精神の安寧や単純な娯楽を目的としたものを除けば、音楽は多面的なものであり、それを構成する楽音も(あるいは楽音ではない音も)多面的なものである。音楽はしばしば美しく甘やかな旋律を奏でるばかりではなくわたしたちに絶望や恐怖を投げつけるだろうし、たとえばヴァイオリンは滑らかで暖かい音ばかりではなく、攻撃的で耳障りですらある音を発するだろう。そのときわたしたちは絶望や恐怖を、攻撃的で耳障りな音たちを聴覚の範囲から疎外しようとはしていないだろうか。

わたしは「棘」のある音楽を好むし、むしろ棘の刺さる痛みを期待して音楽を聴こうとする。わたしのそれほど豊かとは言えない音楽経験において、その棘は多く個人的な音楽に潜む。個人的という言い方が悪ければ、政治や宗教のような「大きな物語」ではなく、もっと細分化され、砕けて飛び散ってしまったかけらたちにこそ、わたしの精神に刺さる棘が内包されている。音楽はわたしを疲労させる。それは、古い地図を持って新しい街を歩くことにも似ている。あるはずのものがなく、ないはずのものがある世界。そこでわたしは出口を見つけられず、目的地に到達できず、疲労する。

まさにその疲労を獲得し、棘を獲得するためにわたしは装置をあつらえて音楽を聴く。そこにおいて必要なのは、滑らかにされてしまった音ではなく、飛散する音の幽霊ではなく、この手で掴めそうな、掴んだら傷がつきそうな音。わたしのためではなく不特定多数のために作られたアンプは棘を覆い隠し、現代のスピーカーは音の実体を亡霊に変換してしまう。わたしの貧弱な知識と不器用な手で作られたアンプが、古くさいフルレンジユニットと出会うことでわたしはようやく精神を鑢で擦るような音と向き合うことができる。

そんなことを、ヴァスクス『遠い光』におけるクレーメルカデンツァを聴きながら思った。