知ることと知らないこと

偶々見掛けたブログで、こういうのがあった。

http://cpplover.blogspot.com/2009/09/3.html

マニアでない人にとって、レコードの音は、古くさくてノイズだらけのへぼい音、というイメージがあるわけだ。新しく便利なものがよい、という素朴な進歩史観が、これほどに面白い文章を書く人でも、自分の関心のない事柄に関しては顔を覗かせる。同じ文章で万年筆という「過去の遺物」を称賛しているのにもかかわらず、だ。

たとえば車マニアにとって、オートマティック・トランスミッションやもしかしたらパワーステアリングも、運転の楽しみや車の性能を殺ぐ悪しきものなのだろう。俺は車にはさほど関心がないし、運転は下手で嫌いなのでそういう気持ちは分からない。だからオートマティックではない車を運転する気にはならないが、同じことがオーディオにもそのまま当てはまる。たいていの人にとって、雑音がなく取り扱いの便利な CD の方がレコードより優れているし、CD よりさらに扱いの楽な圧縮音源の方が優れている。

ただ趣味の世界というのは往々にして非常識なものである。俺などは真空管などというまさに一般的には過去の遺物でしかないものに愛情を注いでいるが、これもはたから見れば非常識でしかないだろう。デジタル IC の方が楽に出力は取れるし効率が良く、オーディオ増幅器真空管を使う意味などない。これは常識であって、真空管を使う意味は、見た目という情緒的理由と、音質という定量化できない領域にしかない。かかる常識はしばしば先入観として「真空管を使った機器はレンジが狭くもこもこした音がする」というイメージに変換される。録音の場で使われるマイクやマイクプリには真空管を使ったものがごろごろしているのにだ。

さらに範囲を狭めていけば、真空管愛好家の世界にも先入観は多く、たとえば「直熱三極管でなければよい音はしない」「負帰還は音質を悪化させる」みたいなのもあるし、「6CA7 や ECC83 は Mullard の Blackburn 工場製でなければならない」というような流派もある。まあ俺も色々やってみてだんだん直熱三極管派にシフトしつつある気はする。

人は全てを経験して知ることはもちろんできないから、コミュニケーション手段を通じて他者の経験や知識をシェアして、あるいは概念として一般化することで多くを知り得るものだ。そうして得られた知識が、普遍的に適用し得る「常識」であると判断することもまた多い。しかしそれは自分が確固たる何かに基づいて獲得したものではない。趣味の世界くらい、「他人の常識が自分にとっての非常識」でもいい。少なくともそれが定量化できない領域の属する事柄である限りは。自分の知識や経験の欠如を自覺すらしないで何かについて語ることは愚かなことで、分からないことに関しては沈黙していた方がいい。俺はそうしているつもりだし、語りえないことについて語ろうとすればそれは本当のことから遠ざかる。言語的分節を拒否した「空」について言語で語ることの矛盾と格闘した初期大乗の思想家みたいなもんで、結局彼らは沈黙の果てにしか真実がないことを感得した。フッサールは日常言語の不実を糾弾し、純粋経験を言語によらず獲得しようとした。

俺がレコード盤に記録された信号を真空管増幅器と広帯域ドライバを通じて増幅・変換し、Robert Wyatt の歌声に耳を傾ける時、いかなる常識も意味を失う。俺は幻想の向こう側にいる音楽家と対峙する手段としてそれらを選択したに過ぎない。絶対や真実がどこかにあることを前提としてそれを声高に主張する輩を俺は信じない。いかに神の普遍的実在を論証しようとしても、それはある閉じた体系における整合性の証明に過ぎない。普遍的真実があるとすれば、それは人間は普遍に到達できないというパラドクスだけだ。

オーディオを趣味とすることは、結局のところそのような虚無と相対することにつながるのではないか。かかる虚無に耐えられないから、マニアたちはナントカ式やカントカ先生やらに依存してそこに真実があると思いたがる。あるいは俺様理論を展開してそこに真実があると信じる。魑魅魍魎が跳梁跋扈する所以であろう。