いずこも同じ?

調べものをしていてぐーぐる先生に頼って検索してたら見つけたページ。

"being a perfectionist and being scared are often the same thing"

AikidoというSRPPとカソードフォロワを組み合わせた(のかな?)回路のプリアンプで知られているらしい人の古い blog のエントリなんだが、オーディオマニアにありがちな完璧主義、ブランド指向、権威に対する弱さを指摘している。「部品フェティッシュ」とか「安樂椅子の回路設計者」とか、「原音」(absolute sound。そういう名称の雑誌が念頭にあるのは明らか)とスペックの奴隷とか、こういう話を読んでいるとオーディオマニアというのはアメリカでも頭の弱い生き物なんだなと納得してしまう。つまり結果に対する責任を司祭様(真空管自作アンプの世界でいう guru がこれに当たるのか?)や歪率計に、あるいは誰かから聞いた話に投げてしまって、自分は批判に対してきわめて臆病になっていると。「司祭様」に接続の左右やプラスマイナスが違っていると指摘することがとても勇気のいることだ、なんてのは実にさもありなんという話で、オレもそういう状況だったら思っても口に出せないだろうなあと思ってしまう。逆にいえば、しばしば「日本のオーディオマニアは技術に弱くてイメージ先行で権威に弱い」なんて言われるけど、それは日本に限った話ではないということでもある。集団的メンタリティは国籍や民族性よりも趣味に対する指向性によって形成されると考えてよかろう。

結論は、そういう状態から抜け出すためには、実際に手を動かして耳で聴いて経験を積んで勉強するべし、ということなんだろう。理屈がちょっと分かって、それと経験が結びついてくると、少なくとも他人のいうことを頭っから信じたり、アヤシゲな商品に大枚をはたく危険性も下がってくるからな。オレの自作だってもちろんいろんな人に影響を受けまくってるけど、結果が自分の理解や感覚にフィットしたものを利用させてもらってるだけで、「ナントカ先生の言うことを信じておけば間違いない」とはならない。それはオーディオや自作に限った話ではなく、そもそもが一次資料にまず当たって、その上で妥当な検証を経た理論や解釈を適切に利用して自分の仕事の土台としていくという手順が身に付いてるおかげなんだろう。オレは哲学屋で文献学屋だからまず依拠すべきは一次資料だけど、それが実験データであったり実際のできごとである場合もあるだろうし、とにかくそういう訓練を受けてるか受けてないかということで考え方の土台が変わってくる。

真理なんてのは制度によっていかようにも作られてしまうものだから、ほんとにそうなんだろうかと自分で確かめてみる態度が物事には大切ということで。オーディオの世界なんてルイセンコだらけなんだからさ。